ドラフト入団拒否一覧

ドラフトで入団拒否した歴代選手!

今回は平成からのドラフトで入団拒否した歴代選手をまとめていきたいと思います。

調べてみると予想以上に多く、今回は平成に特化してみました。

あの有名選手や意外な選手まで拒否した理由などにも迫りながら、入団拒否をした選手のペナルティについても触れていきたいと思います。

それではご覧ください。

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山口裕次郎

2016年、日本ハムからドラフト6位指名を受けた履正社の山口裕次郎投手。

当時、高校生ながら最速146キロの直球が自慢の本格派左腕としてスカウトから注目されていて複数球団から調査がありました。

しかし、社会人野球JR東日本に内定していて本人は「4位以下なら社会人野球へ進む」意思を調査書が届いた11球団に伝えていました。

当然、直前まで本人の意思は変わらずドラフト当日を迎えると日本ハムが6位で強行指名。

しかし、本人の意思は固く日本ハムには入団せず現在はJR東日本でプレーし、2019年のドラフト候補として再び注目されています。

松澤裕介

2015年に四国アイランドリーグの香川に入団すると、1年目から中堅手のレギュラーとして活躍した松澤裕介選手。

するとオフにドラフトで巨人から育成3位で指名されると「東京ドームでホームランを打ちたい」などと期待を寄せていました。

しかし、その後のメディカルチェックで左手の靭帯損傷が発覚し、治療に時間を要することから入団を辞退。

1年後の2016のドラフトでも再び巨人から育成8位で指名され念願叶って入団。

珍しいケースですが、育成の複数回指名は史上初です。

佐藤雄偉知

神奈川の強豪、東海大相模出身で192センチの長身右腕・佐藤雄偉知投手。

怪我もあり、エースではなかったもののポテンシャルの高さに目をつけられ、2014年ドラフトで中日から育成1位で指名されました。

しかし、本人は社会人でプレーしたいという意思を表明し中日が交渉権を放棄という形でHonda鈴鹿に入団しました。

菅野智之

巨人のエースで日本を代表する投手でもある菅野智之投手s。

2011年、東海大の菅野投手は当時の巨人原監督の甥ということもあり、単独指名が予想されていました。
本人も巨人入りを強く望んでいましたが、日本ハムが入札。

競合の末、日本ハムが交渉権を獲得しましたが、菅野投手は入団拒否し大学の卒業延期制度を使い2012年念願の巨人入りを果たします。

日本ハムファンから良い印象はなかったと思いますが、入団1年目から活躍し、エースとして活躍していますから巨人を選んで良かったでしょうね。

諏訪部貴大

社会人Hondaで活躍した先発右腕、諏訪部貴大。

2009年ドラフトで中日から6位指名されるも、評価に納得いかず入団拒否し、Hondaに残留しました。

その後は評価を上げて再指名を目指しましたが、右肘の怪我もあり指名はなく、2012年に引退しました。

入団拒否せずに中日でプレーしていたらどうなっていたでしょうかね?

陽川尚将

現在は阪神の期待の右の大砲候補である陽川尚将選手。

意外にも入団拒否の経験者です。

地元・大阪の金光大阪高校時代に通算36本塁打を放つなど長打力が魅力なスラッガーで、2009年のドラフトで巨人が育成3位で指名しました。

しかし、入団拒否し東京農大に進学。

自慢の長打力に磨きをかけ、2013年ドラフトで阪神から3位指名を受けプロ入りしました。

この時も4巡目以下での指名であれば社会人野球に進むことを表明していたようで、望んだ順位でのプロ入りということとなりました。

長野久義

巨人の長野久義選手もまた入団拒否をした過去があり、しかも2回もしている珍しい選手です。

日本大学時代には強打の外野手としてプロから注目され、2006年のドラフト会議で日本ハムから4位指名を受けます。
しかし、本人は巨人入りを熱望していてこれを拒否しました。

その後、社会人のHondaに進むと2008年のドラフトでも巨人以外の球団ならプロ入りせずに会社に残留する意思を表明していましたがロッテが2位指名。

当然長野選手はこれを拒否し、2009年のドラフトで巨人が1位指名し念願叶って巨人入りしました。

すると1年目に新人王、2年目には首位打者を獲得するなど活躍していますので巨人に拘った意味がありましたね。

木村優太

プロ野球の裏金問題でも名前が挙がるなど、球界を騒がせた元ロッテの木村優太投手。

高校時代は甲子園出場がなかったものの、長身をいかした角度ある直球が魅力で「和製ランディ」とも呼ばれていた注目左腕で、2003年ドラフトで広島が1位指名候補として名前を挙げていました。

しかし、社会人の東京ガスに入団すると、2006年に横浜から3位指名を受けましたが在京パ・リーグ球団への入団を希望していたことから拒否し東京ガスに残留。

さらに2007年には西武ライオンズが高校時代から「栄養費」として現金270万円を渡していたことが発覚し、木村投手は1年間の謹慎となりました。

結局、2008年ドラフトでロッテから1位指名を受けプロ入り。

ただ、在籍7年で1勝を球界を騒がせたわりに大した活躍が出来ませんでしたね…。

福井優也

2010年斎藤佑樹、大石達也と並んで「早大BIG3」と称され広島にドラフト1位入団した福井優也投手s。

彼の入団拒否は高校時代のことでした。

岡山の済美高校時代に2004年のセンバツで2年生ながら主力選手として初出場初優勝に貢献しました。

その後もエースとして活躍し甲子園通算9勝をマークすると、2005年ドラフトで巨人から4位指名を受けます。

しかし、当時の巨人は高卒選手を2,3年で戦力外としていたため、育成方針に不安を持った両親の勧めもあり入団拒否し、誘いのあった早稲田大学進学を決意。

ただ、推薦入試の申し出が間に合わず一般入試も不合格だったため一浪して進学したことから1つ年下の斎藤や大石らと同学年となりました。

2010年ドラフトでは広島から1位指名を受け、史上初の同一大学から3人のドラフト1位指名となりました。

プロ入り後は1年目から先発ローテーション入りするも、なかなか定着できず2018年現在までに目標の二桁勝利も達成できずにいます。

ドラフト1位の底力を見せて欲しいですね…。

内海哲也

最多勝に2度輝いた21世紀巨人の左のエース内海哲也投手。

彼もまた入団拒否をしたことがある選手です。

敦賀気比高校時代は後にプロ入りする仲澤忠厚や李景一と同級生で、左のエースとして活躍していましたが甲子園出場はありません。

当時は最速144キロの直球と落差の大きいカーブが武器で「北陸のドクターK」とも呼ばれました。

2000年のドラフト会議では競合も予想されましたが、祖父の内海五十雄が巨人の野手だったということもあり、内海投手は巨人以外なら拒否することを表明していました。

しかし、オリックスが単独1位指名。

仰木監督の懸命な説得も虚しく入団拒否し、社会人野球東京ガスに入社します。

そして2003年のドラフトで晴れて巨人の一員となり2007年からはエースとしても活躍。

WBC日本代表に二度選出されるなど、その実績は言うまでもありません。

ただ、ここ数年思うような結果が残せてませんから、もう一花咲かせたいところでしょう。

開田博勝

現在は三菱重工長崎の監督を務める開田博勝氏。

福岡の柳川高校時代には2年夏の甲子園で6打席連続安打を記録するなど俊足巧打の外野手として名を馳せました。

1997年に三菱重工長崎に入社すると主に2番打者として活躍しました。

2000年のドラフトでオリックスから5位指名を受けましたが契約金なしという問題もあって開田選手は入団拒否し残留。

それ以降は怪我に悩まされることが多く、2008年で現役を引退。

2011年12月から監督を務めましたが、チームは2016シーズンオフに三菱日立パワーシステムズ横浜と統合されました。

新垣渚

斉藤和巳、和田毅、杉内俊哉らと揃って投手4本柱として活躍した一方で暴投数など不名誉な記録も持つ新垣渚。

沖縄水産高校では150キロ超の速球派右腕として松坂らと並んで注目される存在でした。

当然1998年ドラフトではダイエーとオリックスの2球団が1位指名。

しかし、交渉権を獲得したのはオリックスで、新垣は「ホークス以外なら進学」と決めていたことから入団拒否し、九州共立大学を経て2002年に念願のホークスに入団しました。

1年目から先発ローテーション入りすると、2年目の2004年は最多奪三振を獲得。

球威のある直球と消えると言われる縦スライダーで三振の山を築きました。

しかし、2007年から制球難になりNPB記録の20を大きく上回る25暴投を記録し不名誉な投手となってしまいました。

その後、ヤクルトにトレードされるなど、復活に向け奮闘しましたが2016年に引退。

2017年からはホークスジュニアチームの監督を務めた後、現在は球団広報としても活躍しています。

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斎藤義典

群馬の前橋工業時代に甲子園を沸かせたサウスポーの斎藤義典投手。

140キロ超の伸びのあるストレートと縦に割れるカーブを武器に、全日本選抜のエースとして最速147キロを計測するなど世界大会優勝に大きく貢献しましたね。

1996年のドラフトでは近鉄から5位指名を受けましたが、斎藤投手は地元群馬から近い関東の球団を希望していたため入団拒否。

その後は地元の社会人野球スバルなどで活躍しましたが、2002年に引退しました。

プロで投げる姿、見て見たかったですね。

福留孝介

阪神のキャプテンとして活躍している元メジャーリーガー福留孝介選手。

PL学園在籍時には3年夏の大阪大会で7本塁打を放つなど「高校No. 1スラッガー」としてプロから注目されていました。

1995年のドラフトで7球団が競合し、近鉄が交渉権を獲得しましたが、「巨人が中日以外なら社会人野球へ進む」と決めていた福留はこれを拒否します。

その後日本生命に入社し1996年のアトランタ五輪日本代表に選ばれるなど活躍し1998年のドラフトで中日を逆指名という形でプロ入りしました。

入団間も無くは内野手でしたが、外野手に転向するとゴールデングラブ5回、ベストナイン4回受賞するなど持ち前の強肩強打が光りましたね。

首位打者も2回獲得するなど巧みなバットコントロールとパンチ力が魅力です。

WBCでの優勝を経験しメジャーを意識するようになり、カブスなど3球団メジャーでプレーした後、地元大阪の阪神に入団しました。

阪神として日本球界に復帰した1~2年目は苦しみましたけど、2018年現在40歳を超えた今も強打者として活躍していますから、さすがですね。

実力もそうですが、勝負への拘りやメンタルの強さは阪神でもナンバーワン!

大橋晋也

大学、社会人時代には世代を代表する捕手として活躍した大橋晋也選手。

駒澤大学時代は日本代表に選出されるなど打撃が魅力の捕手として活躍していて、プロからも注目されていました。

しかし、社会人トヨタ自動車への入社が内定している中、1995年ドラフトでロッテが8位強行指名しましたが社会人野球への意思が固まっていたことから入団拒否。

その後も日本代表に選ばれるなど活躍しましたがプロ入りは叶いませんでした。

三井浩二

2000年代の西武で先発や中継ぎとして活躍したサウスポー三井浩二投手。

北海道足寄高校時代の1991年にダイエーと阪神から4位指名。

ダイエーが交渉権を獲得しましたが「プロでやる自信がない」と入団拒否。

その後は社会人野球へ進み新日本製鐵広畑のエースとして活躍した後、2000年のドラフトで西武から2位指名を受けプロ入りしました。

地元足寄町出身の松山千春と親交があり、自身のスクリューが「チハルボール」と称されることもありましたよね。

小池秀郎

あの野茂英雄と並び史上最多8球団がドラフトで1位指名したサウスポーの小池秀郎投手。

当時、亜細亜大学に在籍していた小池投手は大学通算28勝、当時の東都記録シーズン111奪三振を誇る大学No.1の呼び声高い投手でした。

1990年のドラフトでは小池投手を8球団が指名。

しかし、引き当てたのはロッテでした。

小池投手は80年代終盤は暗黒期だった「ロッテ、阪神の2球団だけには絶対に行きたくない」と腹を決めていましたから当然入団拒否。

その後、松下電器に入部し1992年ドラフトで近鉄から1位指名を受け入団します。

1997年に最多勝を獲得するも、その後は目立った活躍ができず、のべ4球団を渡り歩き2005年に引退しました。

米正秀

横浜で投手として活躍した米正秀投手。

山口県立西京高校出身で1990年に横浜大洋ホエールズからドラフト5位で指名されましたが、「プロでやっていける自信がない」とし、入団拒否。

その後、神戸製鋼を経て1994年に横浜ベイスターズから2位指名を受け入団しました。

1年目から初完封を飾るなど期待されましたが、8年のキャリアで4勝しか挙げられず2002年に引退しました。

現在は学生野球資格を持っていることから、今後はアマチュア球界の指導者として盛り上げていってくれるのでは?

元木大介

くせ者として相手選手をかき乱してきた巨人OBの元木大介氏。

彼もまた入団拒否の経歴を持ちます。

上宮高校時代は端正なマスクもあり、女性ファンが多く甲子園でもフィーバーを巻き起こしました。

本人は巨人ファンで巨人入りを強く希望していましたが、1989年のドラフトではダイエーホークスから1位指名されました。

元木はこれを拒否し、単身ハワイへ野球留学に。

すると1990年のドラフトで巨人から1位指名を受け念願叶いました。

その後は打ってはつなぎ役、守ってはトリッキーなプレーで魅せる内野手として活躍し、引退後は解説や飲食店経営などを経て2018年からはU-12日本代表の監督を務めています。

未来のくせ者を輩出して欲しいですね。

黒須陽一郎

立正大学で強打の外野手として活躍した黒須氏。

シュアでパンチ力ある打撃からスカウトの評価も高く、1989年のドラフトで野村克也率いるヤクルトから3位指名されるも
就職かプロかでギリギリまで悩み結局就職を選択し入団拒否しました。

西山一宇

巨人の投手としてプレーし、現在は巨人のスコアラーでもある西山一宇氏。

高知商業時代には豪速球右腕として注目されていて、1988年ドラフトで高校の先輩でもある有藤通世監督率いるロッテオリオンズからドラフト5位で指名されましたが、「体力的にプロでやっていく自信がない」と入団拒否。

社会人野球のNTT東日本に入部すると、1992年にはバルセロナ五輪の日本代表にも選出され、故障の不安があったもののドラフト3位で巨人に入団しました。

現役時代よりも、スコアラーとして2009年のWBC2連覇に貢献したことの方が印象的ですよね。

ドラフトで入団拒否した選手のペナルティについて

現在のドラフト制度では1巡目指名は競合した場合は抽選となり、2巡目は下位のチームから、3巡目は上位のチームからというウェーバー制をとってます。

つまり、選手本人の意中の球団があったとしても、反してくじ引きの結果や指名順番によっては希望する球団に行けない可能性が高く選手側にチームを選ぶ権利はないと言ってもいい状態なのでは?

前述のようにこれほど多くの選手が入団拒否をしていますが、ドラフトで入団拒否した選手のペナルティについても触れてみたいと思います。

結論的にドラフト入団を拒否した場合のペナルティはほぼありません。

まず、入団拒否後の選択肢としては「社会人」「進学」「海外」の3つが挙げられます。

現在は巨人の内海投手や長野選手のように、ドラフト指名を受けながらも入団拒否した場合、高卒選手は3年間、大卒選手は2年間指名が出来ないという制限が設けられています。

ただこれは、指名されずに社会人へ進んだとしても同様の制限があるため、実質的にはペナルティは無いとも言えますね。

そして、大学進学のパターンでも4年間プレーするのは入団拒否の有無に関わらず発生することなのでこれも実質ペナルティは無いと言えます。

菅野投手のように、大卒で指名されながらも入団拒否したものの大学の留年制度を上手く使って1年後に指名されるというパターンもありましたが1年間大学の対外試合には出場できないというデメリットもありますね。

続いて海外の例は元木大介氏のハワイ留学があります。

しかし、2008年に当時新日本石油の田沢純一投手がメジャーリーグ挑戦を表明し、12球団に対し指名を回避するように求めたといいます。

そこで

「ドラフトを拒否して海外リーグに移籍した場合、日本に復帰する際高卒選手の場合は3年間、それ以外の選手は2年間ドラフト指名ができない」

という通称「田澤ルール」が出来ました。

個人的には実質大きなペナルティは無いかと思います。

下位指名で入団拒否した選手に関しては「上位指名されるよう頑張る」「自信がない」などの理由から、進路先でも頑張れと思いますが、上位指名ないしは1位で競合されながらも拒否した選手に関しては「意中の球団じゃない」とあくまで個人の意見でしかないですし、高評価されて1番良い席を用意されているのにも関わらず拒否したわけですからもう少し厳しいペナルティがあっても良いのでは?と思えます。

現在は「逆指名」「自由枠」がなく、全員が意中の球団に入ることは難しいですが戦力の均衡を保つというドラフトの意義を選手側も理解して欲しいですね。

まとめ

というわけでドラフトで入団拒否した歴代選手一覧をまとめてみました。

今回は平成編ということでお送りしましたが、いかがでしたか?

それだけプロへの強い思いを持っているとも取れますから、活躍している選手たちは本当に努力していることがわかりますよね。

また、入団拒否をした選手のペナルティについても触れてみましたが実質的にはペナルティが無いと言えますから今後さらに整備されていくことを願います。