ドラフト入団拒否一覧・昭和

ドラフトで入団拒否した歴代選手!

今回は昭和のドラフトで入団拒否した歴代選手をまとめていきたいと思います。

平成のドラフト入団拒否選手とは違ってかなり懐かしい顔ぶれになっています!

ドラフトの歴史を変えたあの大投手など、登場しますのでどうぞご覧ください!

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石井章夫

2017年から社会人野球日本代表の監督を務める石井章夫氏。

元西武ライオンズの投手で解説者の石井貴の兄です。

慶応大学の巧みなリードが武器の捕手として1986年のドラフトで大洋ホエールズから2位指名を受けましたが、父親が亡くなったなどの家庭環境もあり入団拒否。

東京ガスへ入部し、正捕手としてチームを支えました。

もしプロ入りしていたら、兄弟バッテリーも実現出来たかもしれないですね。

杉山孝一

都市対抗野球の歴史に今なお名前が残るスラッガーの杉山孝一。

社会人野球、新日本製鐵名古屋4年目の1985年にヤクルトから6位指名を受けましたが、都市対抗野球への強い想いから入団拒否。

1994年には10年連続都市対抗野球出場を飾ったほか、個人の大会通算本塁打記録を14まで伸ばし今も破られぬ記録となっています。

有倉雅史

日本ハム、ダイエー、阪神と3球団を渡り歩いたリリーフ投手の有倉雅史。

北海高校時代の1985年ドラフトでロッテから6位指名を受けるも、大学進学を志していたことから入団拒否し日本体育大学へ。

その後1989年、日本ハムにドラフト6位で入団し長身から投げ込むフォークを武器に1年目から活躍しました。

現在は教員として甲子園を目指し奮闘中です。

高見泰範

バルセロナ五輪では日本代表の主将も務めた高見泰範氏。

愛知工業大学時代の1985年、阪急からドラフト5位指名を受けるもプロへの意志が低く入団拒否し、社会人野球東芝へ入部しました。

その後、日本代表に選ばれるなどアマチュアナンバーワン捕手として活躍、引退後には東芝の監督を務めるなど長きに渡ってアマチュア球界を支えました。

長冨浩志

1986年の新人王右腕で広島投手王国の1人だった長冨浩志氏。

国士舘大学4年次の1983年にロッテからドラフト3位指名を受けるも入団拒否しNTT関東へ。

すると1985年にはドラフト1位で広島に入団します。

1年目から8連勝を含む10勝を挙げセ・リーグ新人王に輝くなど、
北別府学、大野豊、川口和久らと広島投手陣を支えました。

若い頃は150キロ超の速球が魅力でしたが、30歳を過ぎた辺りからサイドスローに転向しスライダーを中心とした投球になるなど投球スタイルを模索し、日本ハム、ダイエーと渡り41歳まで現役を続けました。

新谷博

佐賀商業のエースで3年夏の甲子園でノーヒットノーランを達成した新谷博氏。

1982年ドラフトでヤクルトから2位指名を受けましたが、高校野球指導者を志しており強い意思を持って駒沢大学へ進学しました。

しかし、大学時代に靭帯損傷などの怪我を経験しドラフトでは声がかからず社会人の日本生命へ入部しました。

その後1991年に黄金時代の西武からドラフト2位指名を受け入団。

先発ローテーションとして活躍し、1994年には最優秀防御率のタイトルを獲得しました。

引退後は日本ハムのコーチ、大学や女子野球の指導者としても活躍しています。

広瀬哲朗

安定した守備と気迫溢れるプレーが魅力の遊撃手、広瀬哲朗氏。

駒澤大学時代にはベストナイン4回獲得するなど不動のショートストップとして活躍し、1982年にヤクルトからドラフト4位で指名を受けるも入団拒否しました。

本田技研の入部し、社会人でもベストナインに輝き1985年にドラフト1位で日本ハムに入団。

1993年と1994年には2年連続でベストナイン、ゴールデングラブに選ばれるなど内野手として活躍しましたね。

引退後は女子野球日本代表の監督などを経験し、現在は富山の魚津工業で非常勤コーチとしてチームの守備力工場に一躍買っています。

石井宏

現在は指導者として活躍する石井宏氏。

北海道日大高校エースとして選抜に出場すると、1981年にロッテからドラフト4位指名を受けますが入団拒否して日本大学に進学します。

1985年に阪急にドラフト1位で入団しましたが、目立った活躍なくわずか4年で引退しました。

しかし、大学在学時に教員免許を取得しており、引退後は地元北海道の高校で教師をしながら女子野球部の指導者などをしています。

岡本光

現在は大阪・藤井寺市で市議を務める岡本光氏。

阪神タイガースに在籍する岡本洋介の叔父でもあります。

和歌山串本高校ではエースとして活躍し1978年に南海から3位指名を受けましたが入団拒否し、松下電器に入部しました。

1981年に再び南海ホークスからドラフト5位指名を受けるも、再び入団拒否し、翌1982年にドラスト2位で巨人入りしました。

しかし、プロでは目立った活躍なく引退し、2003年から政治家として活躍しています。

高山郁夫

現在はオリックスバファローズの一軍投手コーチを務める高山郁夫氏。

秋田商業高校時代には最速149キロの速球を武器に、2年連続で夏の甲子園に出場するなどエースとして活躍。

さらに高校時代に足の骨が砕けていることがわかり、手術を要することから、当時西武監督の根本陸夫氏からプリンスホテルへの入社を勧められ、高山は西武以外の指名は拒否することを表明しました。

1980年ドラフトで日本ハムから1位指名を受けますが、宣言通りに入団拒否してプリンスホテルに入部しリハビリに時間を費やした後、1984年に西武に入団します。

プロ入り後は西武、広島、ダイエーで12年間プレーしコーチとしてソフトバンクを優勝に導いたほかその手腕で多くの投手を育ててきましたね。

川村一明

「ハッカイ」のニックネームで親しまれた元西武の川村一明氏。

長野の松商学園高校時代に2年連続で夏の甲子園に出場、エースとして活躍しました。

1980年ドラフトで阪急から1位指名を受けましたが入団拒否し、プリンスホテルに入部。

前述の高山郁夫とは同期に当たります。

1983年に西武から4位指名を受け入団し、西遊記の猪八戒から「ハッカイ」のニックネームで親しまれましたね。

銚子利夫

1979年、銚子高校の銚子くんとして4番エースで初の夏の甲子園に導きました。

その年のドラフトで近鉄から4位指名を受けるも入団拒否。

法政大学で力をつけ1983年ドラフトで大洋から1位指名を受け、内野手として入団すると、1988,1989に三塁手のレギュラーとして活躍しました。

引退後は横浜のコーチも務めました。

熊野輝光

現在は阪神をスカウトを務める熊野輝光氏。

法政大学時代の1979年にヤクルトからドラフト3位指名を受けるも入団拒否し、日本楽器へ入部。

1984年のロサンゼルス五輪では日本代表の主将を務めるなど金メダル獲得に貢献し、その年に阪急にドラフト3位で入団します。

1年目に新人王に輝くなど活躍し、引退後はオリックスの打撃コーチなどを経て2013年から阪神のスカウトとして未来のスターを発掘しています。

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木田勇

NPB史上初の新人でのMVP受賞選手となった木田勇氏。

社会人・日本鋼管時代の1978年のドラフト会議で大洋、阪神、広島がドラフト1位で競合し、広島が交渉権を獲得しましたが、家庭の事情で在京球団を志望していたため入団拒否。

1979年のドラフトでも3球団が競合し、日本ハムに1位で入団しました。

1年目には22勝8敗などで投手三冠、新人王、そしてNPB史上初となる新人でのリーグMVPにも選ばれました。

しかし、2年目以降は伸び悩み目立った成績を残すことなく1990年に中日でユニフォームを脱ぎました。

江川卓

「空白の一日」が社会問題となった昭和の怪物江川卓。

作新学院高校1年時には夏の県予選で完全試合を達成、2年時も甲子園出場は叶わなかったものの予選で3試合連続のノーヒットノーランという圧巻の投球を見せます。

3年夏に甲子園出場も2回戦で姿を消しましたが、江川フィーバーとなりましたね。

1973年ドラフトで阪急から1位指名を受けるも入団拒否し、法政大学に進学。

スターが多く集まる東京六大学リーグでも活躍したのち、1977年ドラフトで福岡に本拠地を置くクラウンから1位指名を受けます。

しかし、在京球団を希望していた江川は入団拒否し、アメリカへ渡り翌年の指名に備えました。

翌ドラフトの前日にライオンズの交渉権が失効したとの解釈で江川は巨人と電撃契約。

これは「空白の一日事件」として球界に衝撃を与えました。

すると翌日のドラフト会議に巨人は出席せず、抗議の意味も込め4球団が江川を1位指名し阪神が交渉権を獲得しました。

巨人側もこれを抗議しますが、江川は一旦阪神へ入団し、当日中に高田繁とトレードという形で巨人入りしました。

1980年と1981年に2連連続で最多勝を獲得するなど、活躍しましたが、学生時代からの登板過多の影響もありわずか9年で引退。

現在は野球解説者などとして活躍しています。

川口和久

広島、巨人で18年間プレーしたサウスポーの川口和久氏。

鳥取城北高校時代の1977年ドラフトで10球団から獲得を打診されロッテから6位指名を受けましたが、「プロでやっていく自身がない」として入団拒否。

社会人のデュプロに進んで経験を積み、1980年に原辰徳の外れ1位指名で広島に入団しました。

広島時代には3シーズンで最多奪三振のタイトルを獲得するなど、スピンの効いた速球と変化球のコンビネーションで18年間先発投手として活躍しました。

森繁和

12球団最年長監督として中日浮上のきっかけを模索している森繁和氏。

駒澤大学時代に東都リーグで5回優勝を経験するなど投手として活躍すると、1976年ドラフトでロッテから1位指名を受けましたが「まだ足らないところがある」と自身で金田監督に断りを入れに行き入団を拒否しました。

そして1978年ドラフトでは4球団が1位で競合し、西武に入団しました。

プロ入り直後は先発ローテーションとして活躍しましたが、4年目からはリリーフに転身し1983年に最優秀救援投手のタイトルを獲得しました。

引退後はコーチなどで活躍し、2016オフに史上最年長63歳で初の監督就任で中日ドラゴンズで指揮を執っています。

應武篤良

早稲田大学の監督として活躍した應武篤良氏。

広島の崇徳高校時代に近鉄からドラフト3位指名を受けましたが入団拒否し早稲田大学で捕手として活躍。

1994年に社会人、新日鐵君津(現:新日鐵住金かずさマジック)の監督となり森慎二や松中信彦など6人の選手をプロへ送り出しました。

そして2004年から2010年までは早稲田大学の監督としてこちらでも多くのプロ野球選手を輩出しました。

現在は母校、崇徳で監督を務めています。

石毛宏典

西武の黄金時代を支えた名遊撃手の石毛宏典氏。

銚子高校時代の1974年のドラフトでロッテから6位指名を受けるも入団拒否し駒澤大学へ進学。

卒業後はプリンスホテルに入社し実力に磨きをかけると、1980年にドラフト1位で西武に入団します。

ルーキーイヤーで開幕スタメンを勝ち取ると長嶋茂雄との新人王争いを制すなど遊撃手として西武の黄金時代を支えます。

1986年にはMVPに選ばれると、ゴールデングラブ賞も10回獲得するなど活躍しました。

引退後は関西独立リーグ創設を考案するなど、プロを目指すスター選手の発掘に貢献しています。

門田博光

通算本塁打と通算打点で歴代3位のスラッガー門田博光氏。

天理高校から社会人クラレ岡山に入社し、1968年に阪急からドラフト指名を受けましたが12位という順位に納得せず入団拒否。

翌年にドラフト2位で南海に入団しました。

足の怪我に不安を抱えながらも本塁打王を3回獲得するなど長距離砲として活躍。

1988シーズンは40歳ながら打率.311、44本塁打、125打点で本塁打王と打点王、そしてMVPに輝くなど、現役23年と長きに渡って活躍しましたね。

それにしても、ドラフト12って、当時は入団拒否も多かったため大量に指名していたことも伺えますね。

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山田久志

NPB史上最高のサブマリン投手、山田久志氏。

能代高校から社会人の富士製鐵釜石に進むと、1967年ドラフトで西鉄から11位指名を受けるも入団拒否し翌1968年にドラフト1位で阪急に入団。

現役時代の活躍は言わずもがなで、アンダースローながら力強い速球とキレのあるシンカーで打者を手玉に取り最多勝を3回獲得するなど通算284勝を挙げ名球会入りしています。

引退後は中日のコーチとして福留孝介を外野手にコンバートさせ開花させたほか、2009年には日本代表の投手コーチとしてWBC連覇に貢献しましたね。

新井宏昌

南海や近鉄で活躍し2000本安打を達成した巧打の新井宏昌氏。

PL学園時代には主将として甲子園準優勝に貢献するなど注目の選手でした。

1970年ドラフトで近鉄から9位指名を受けましたが、挨拶に来なかったなどと入団拒否し法政大学に進学します。

1974年に南海から2位指名を受けプロ入りすると、巧打を武器に活躍し7シーズンで打率3割をマークするなどシェアな打撃が光る選手で、2000本安打を達成したほか、犠打数も300を超え繋ぎ役の印象ですね。

引退後は広島などでコーチとして活躍し、現在は解説者なども務めています。

袴田英利

鉄人村田兆治の女房役として活躍した袴田英利氏。

1973年にロッテからドラフト3位指名を受けましたが入団拒否し法政大学に進学。

江川卓とバッテリーを組むなど黄金期を築くと、1978年にドラフト1位でロッテに入団します。

マサカリ投法で有名な村田兆治の鋭く落ちるフォークボールをノーサインで受けていたことから名捕手とも呼ばれ、ドカベンなどにもよく登場しましたよね。

引退後はロッテのコーチなどを経て、BCリーグ武蔵ヒートベアーズのヘッドコーチを務めています。

平松政次

カミソリシュートの異名を持つ凄まじい変化球を投じた平松政次氏。

1965年春の選抜でエースとして優勝すると、秋のドラフトで中日から4位指名を受けるも入団拒否。

日本石油に進み、翌1966年ドラフトで大洋から2位指名を受けるも保留し、1967年の都市対抗野球で優勝した後に途中入団します。

巨人キラーとしても活躍し、通算201勝で名球会入りしています。

甲子園優勝投手では唯一の名球会入りとのことですね。

江本孟紀

エモやんの愛称で親しまれ、引退後はタレントや政治家としても活躍している江本孟紀氏。

高知商業時代の1965年に西鉄からドラフト4位指名を受けますが、元々進学を希望していたため入団拒否し法政大学に進学。

社会人の熊谷組を経て、1970年ドラフト指名漏れしたものの東映にドラフト外で入団します。

その後は南海、阪神と渡り11年で引退。

引退後は政治家やタレント、大学の非常勤講師として活躍の場を広げていますね。

まとめ

というわけでドラフトで入団拒否した歴代選手一覧をまとめてみました。

今回は昭和編をお送りしましたが、いかがでしたか?

昔の方が入団拒否すた選手が多いだけ、かなりの多くの人選となりました。

名選手ばかりですし、特に1960年代から70年代にかけては高卒で指名されて自信がないからと進学するパターンが多いですよね?

今と違ってプロ志望届のようなものもなかったでしょうから、球団側も戦力になると思えばなりふり構わず指名していたところもあるのではないでしょうか。