岩瀬仁紀・中日

今回は通算登板数と通算セーブ数のプロ野球記録を持つ

岩瀬仁紀投手

を取り上げます。

スーパーレジェンドである岩瀬投手の年俸はどうなっているのでしょうか。

また戦力外と引退の噂から復活をしたのでしょうか、全盛期の様子や新魔球についてなど多方面からチェックしていきましょう。

是非ご覧ください。

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岩瀬仁紀の年俸推移

それではまず岩瀬投手の入団からの年俸推移を見ていきましょう。

1999年 1300万円
2000年 4200万円
2001年 8000万円
2002年 1億500万円
2003年 1億4000万円
2004年 2億円
2005年 2億3000万円
2006年 3億500万円
2007年 3億8000万円
2008年 4億3000万円
2009年 4億3000万円
2010年 4億3000万円
2011年 4億3000万円
2012年 4億5000万円
2013年 3億7000万円
2014年 3億7000万円
2015年 3億円
2016年 5000万円
2017年 5000万円
2018年 7500万円

岩瀬投手は1998年、ドラフト2位でNTT関東から入団。当時の監督は星野仙一氏(現楽天球団副会長)、担当スカウトは近藤真市氏(現中日投手コーチ)。

担当スカウトであった近藤氏の現役時代の背番号13を託された岩瀬投手は星野監督からは先発としての活躍を期待されての入団でした。年俸は1300万円とノンプロ出身のドラフト2位としては標準的な年俸ですね。

先発希望だったもののチーム事情もあって1年目は中継ぎ登板が主体となり、65試合登板、防御率1.57と圧倒的な成績を残します。

その後も先発のテスト登板なども行われたものの、中継ぎで毎年安定した数字を残し続けるうちに中継ぎとしてはずすことができない投手になっていきました。

入団時の抑え投手は宣銅烈で、その後ギャラード、大塚と移り変わっていくものの岩瀬投手はその前のポジションを淡々とこなし2003年まですべて50試合以上の登板を記録しています。

この時点で既にチームのブルペンに欠かせない投手になっていたため年俸も2002年に1億円を超えていますね。

そして2004年、落合監督が就任すると同時にメジャーへ移籍した大塚投手の後釜として抑えに収まり、22セーブ。

翌2005年から3年連続で40セーブ以上を記録し落合監督の絶大な信頼を勝ち取ります。

岩瀬投手の武器といえば「死神の鎌」と異名を取ったスライダー。

ベース板の端から端まで大きく鋭く横滑りするボールで、曲がり始めてからさらに加速しているように見える圧倒的な切れ味でした。

右打者にとって外角のボール球に見えるボールが気が付けば膝元まで食い込んでくる、左打者には背中から来たボールが外角いっぱいに気が付けば決まっている、プロの強打者でも、わかっていても対処が難しい正に魔球でした。

このボールに加えて、強靭なメンタルを武器に数々のピンチを淡々と切り抜け、当たり前のように登板数とセーブを積み重ねていきました。

岩瀬投手の凄みを現すひとつの数字として、6度出場した日本シリーズでの失点が一度もないというものがあります。

その中には2007年の日本シリーズで8回まで完全試合を続けた山井をリリーフして9回を三者凡退に抑えた試合も含まれています。1本のヒットも許さないまま山井を降板させた試合で球場は異様なムードに包まれていましたが、その中で自らの仕事を淡々と実行した姿は岩瀬投手の真骨頂でしたね。

抑えとして君臨し続けた落合監督時代に年俸もどんどん上がり、2008年には4億を超え、Maxは2012年の4億5000万円です。

大魔神佐々木を擁して横浜を日本一に導き、最近では2017年のWBCで投手コーチを務めた権藤博氏が岩瀬投手の凄さについてこのようなコメントを残しています。

「抑える確率の高い打者を見極め、危ないと思ったら、簡単に勝負に行かず、これなら大丈夫というところまで我慢する。必要ならボール球も費やし、1イニングに手間暇をかけて抑える。やるかやられるか、という土壇場の緊張感に脂汗を浮かべながら、ここまで粘れる投手はいない。」

成績に陰りが見え始めた2016年からは5000万円の年俸で契約していますが、40歳を超えても現役は続行、400を超えるセーブはもちろん日本プロ野球記録

登板数とセーブを今後どこまで伸ばしていけるのか注目されますね。

完全復活?戦力外と引退の噂はどう?

そんな岩瀬投手も年齢による衰えに抗うことは並大抵ではなく徐々に成績を落としていきます。

それに伴って戦力外引退の噂が付きまとうようになりますが、実際はどうなのでしょうか。

CHECK!プロ野球戦力外・引退予想2017-2018!中日の候補選手一覧

2015年に中日は若返りと将来へのチーム作りの為、落合監督時代にチームを支えたレジェンド選手数名に引退を促しました。当然岩瀬投手もその候補には挙がりましたが、岩瀬投手はその実績から、自ら進退を決めることが許される数少ない選手。

そこで岩瀬投手は現役続行を選択しました。

2015年はプロに入って初めてケガの影響から実戦登板がなく、ファンの間でも引退の噂は広がっていましたし、戦力外ということも考えられなくはありませんでした。

翌2016年も結果を出すことができずこの2年間は本人も常に引退を考えていたと言います。

2015年は同年に引退した山本昌から「お前は続けろ」と励まされ、また2016年は白井オーナーから「まだ辞めちゃいかん」と引き留められ、もう一度マウンドに立つことを決意することになったそうですね。

もうかつてのようなスライダーのキレや球威を追い求めても復活は難しいと感じた岩瀬投手は宝刀スライダーを捨て完全復活への道を模索し続けました。

そこからは新しいボールの習得を目指したプロ最後の戦いが始まります。

2017年シーズンは落合監督時代に投手コーチとして自らを起用し続けてくれた森繁和氏が監督となり働き場を与えられたことで月間MVPも獲得、まさに新しいピッチングで完全復活ともいうべき活躍を見せてくれていますね。

全盛期が凄い!新魔球についても

岩瀬投手の全盛期が凄いというのは数字でも確認することができますね。

全盛期は落合監督が指揮を執った8年間と被ると思われますが、この間40セーブ以上が5回、30セーブ以上が2回。2005年には46セーブの日本最高記録を樹立。

剛腕タイプではありませんが、スライダーのキレとコントロールが絶妙でしたね。

8年間の平均防御率が2.15というもの凄さ。

この間、前を投げるセットアッパーは岡本、平井、浅尾、高橋、河原等色々な投手が務めたものの抑えの岩瀬投手は完全に不動。落合監督、森投手コーチの信頼は絶大でしたね。

ファンからのニックネームは「死神」。背番号がタロットカードの死神を連想する13であったことや、淡々と最後のアウトを奪う姿からそう呼ばれ、決め球スライダーは「死神の鎌」と呼ばれました。

長年の勤続疲労もありひじの状態が上がらなくなった2014年頃からかつてのようなボールを投げることが難しくなった岩瀬投手は宝刀スライダーに代わる武器となるボールを模索し続けました。

キャンプなどで次々と試投を繰り返し、ナンバリングを重ねていきましたが、どれも試合で使える程のボールには仕上がることはありませんでした。

で、復活のきっかけとなった2017年キャンプで手ごたえのあるボールをようやくものにし、新魔球となる「名もなき球」というネーミングを施しました。

これは岩瀬投手が長年武器にしてきた曲りの大きなスライダーとは逆の小さく鋭く打者の手元で曲がる所謂カットボール。

プロの投手の投げるカットボールはスライダーに近いようなボールもあって打者に軌道がわかると対応されてしまうこともありますが、岩瀬投手のこのボールは打者の手元で鋭く小さく曲がるためとらえきれないボールです。

2017年はこの新魔球を軸に、ツーシームやスクリューなどを織り交ぜて曲り方向や曲り幅に変化をつけ、昔のストレートの球威と宝刀スライダーで抑えるスタイルから完全に生まれ変わった投球を披露していますね。

まとめ

プロ野球史上最も多い登板数とセーブ数を誇る岩瀬投手。

投げるボールが凄いことはもちろんですが、プロで長年投げ続けるためのフィジカルの管理も素晴らしかったのでしょうね。アルコールは飲めないそうですが、抑えを務めるようになった頃から魚と野菜中心の食べ物に変えたり、禁煙に取り組んだり常に身体の管理には気を配っているようです。

もうここまで来たら1000試合登板まではなんとか達成してもらいたいですし、セーブも可能な限り積み重ねてもらいたいですよね。