森野将彦・中日

中日ドラゴンズ一筋大ベテランの

森野将彦選手

勝負強いバッティングでクリーンナップを任され、守備では内外野問わずそつなくこなす類稀な野球センスを持っている選手ですが、当時監督だった落合博満さんは覚醒する前から森野選手に目をつけていたんだとか。

ほんと見事的中して一流選手として活躍してきましたね!

でも年齢的なこともあってかここ数年成績が奮わずベテランの域に達している森野選手について、戦力外や引退?の噂もありますね。

というわけで、そんな森野選手の戦力外と引退の噂についてピックアップ!

また、年俸推移や嫁と子供もチェック!

そして高校時代についても迫っていきますのでご覧ください!

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森野将彦は戦力外?引退の可能性は?

森野選手はプロ入りから20年以上が経ち、2015年ごろから出場試合数が減り続けています。

年齢的にも戦力外引退の噂が出るのも無理はありませんが、森野選手自身は2016年の6月に

「このまま二軍で、上にお呼びがかからなかったら、(戦力外になるかもしれない)というのはあった」

と言いながらも、

「辞めなきゃいけなくなるかもとは思ったが、辞めようとは思っていない」

と語っています。

辞めなきゃいけなくなる=戦力外を覚悟したということですが、あくまでも自分から辞める気はなく、まだまだ現役に意欲があるということですね!

2016年には引退の噂のみらならず、二軍監督就任の噂まで流れました。

これは当時の谷繁監督が成績不振を理由に球団に休養を申し入れたため、当時の二軍監督であった小笠原道大さんが一軍監督に昇格し、


空いた二軍監督の座に森野選手が、、、、、

という話だったんだとか。

しかし2017年監督に就任したのは森前ヘッドコーチで、小笠原さんは2017年も二軍監督を務めています。

ちなみに2017年のファームの成績は広島に次ぐ2位という好成績なので、将来的には一軍監督に小笠原道大さん、森野選手が二軍監督ということもあり得るかもしれませんが、森野選手自身は寝耳に水だったようで、

「そもそも辞めるか、辞めないかも決まってないのに二軍監督の話があるわけがない」

と完全に否定しています。

選手間でも話題になっていたそうで、出どころがどこなのか気になるところですが、2014年ごろ落合GMに

「いずれ野球を辞めたら、監督や指導者をやる気あるのか」

と聞かれたことがあるそうです。

森野選手は「そういうふうに見られるのは光栄なこと」と受け止めつつ、「勝手に辞めさせないでよ、もうちょっと野球やらせてよ!」

とちょっとお茶目に現役を続けたいという意思を示しています。

二軍の監督とはいえコーチ経験もなくいきなり名前が挙がるわけですから、周囲からは指導者向きだと思われているのかもしれませんね。

このまま森野選手が戦力外、もしくは自らの決断で引退を選択することはあるんでしょうか。

これだけの選手なだけに注目ですね。

2000本安打達成まで現役?

2017年は4人が2000本安打を達成しました。

中日では6月に荒木選手が達成しましたね。

荒木選手は森野選手の一学年年上。

荒木選手が2000本目のヒットを打った直後、チーム代表で花束を渡していたのを覚えている方も多いのではないでしょうか?

年も近い荒木選手の達成ですから、森野選手も当然意識することでしょう。

森野選手は2017年9月現在まで1581本のヒットを記録しています。

2000本安打まではあと419本ですね。

1500本安打を記録したのが2015年なので、ここ2年で80本ほどしか打てていないことになります。

残り400本というとレギュラーでフル出場しても3年ほどかかりますから、近年の成績を見ると厳しいのでは…と思ってしまいますが、諦めるのはまだ早い!

最年長での2000本安打達成者は森野選手の元同僚、和田一浩さん。42歳11カ月での達成です。

大学、社会人を経てのプロ入りだったということもありますが、和田さんがレギュラーを掴んだのは30歳の時で、それまではわずか289本しかヒットを打っていませんでした。

そこから12年連続で100安打以上を記録し、さらに中日移籍後の2010年、2017年の森野選手と同い年の38歳の時にキャリアハイの打率.339、年間171安打を記録しているんです!

そして和田選手の前に最年長記録を持っていたのは谷繁さんで、42歳4カ月での達成でした。

ドラゴンズはピッチャーもそうですが、バッターも選手寿命が長い選手が多いですね!

森野選手は2000本安打について、


もちろん打ちたいという気持ちはあります!

と素直に言っています。

そりゃそうですよね。

特に大きな怪我をしているわけでもないようですし、年齢も先輩方の記録を見る限りまだまだ可能性はありますね。

期待しましょう!

追記:引退表明

森野選手が2017シーズンをもって残念ながら引退を表明。

2016年オフには減量で全盛期に近い体に成功したので期待されましたが、シーズン途中の肉離れが痛かったですね。

2015年からは成績も出場試合数も急下降したまま、2017シーズンも復活できなかったということで、今シーズンが無理だったら、、ということで決めていたのかもしれません。

これだけ黄金期を支えた選手なので引退後は当然のようにフロントのポストが用意されていることだと思うますが、森野選手自身はどういう進路を考えているんでしょうね。

中日一筋21年間!

今後の森野選手の動向にも注目です

追記:2軍打撃コーチ就任決定

年俸について

ここからは、森野選手の年棒について見ていきましょう。

2017年8400万円
2016年からマイナス40%と強烈な減俸で、ついに大台の1億を下回った2017年。

巻き返しを誓って臨みましたが、2016年同様開幕は二軍スタートとなります。

5月に一軍に昇格しますが、21試合の出場に留まり打率.250

右太もも裏を痛め7月に再び二軍行きとなります。
二軍では39試合に出場していますが、打率.191と低迷しています。

2016年1億4000万円

プロ入り20年目の節目の年ですが、オープン戦の不振から2006年以来10年ぶりに開幕二軍スタートとなります。
4月に一軍昇格を果たすも出場機会に恵まれず、わずか1ヶ月ほどで登録抹消。

その後は2か月近く二軍生活が続き、戦力外も頭をよぎったそうですが、6月後半に再度昇格すると7月10日の神宮でのヤクルト戦で2年ぶりとなるホームランを放ちます。

前年に谷繁さん、山本昌さん、和田さん、小笠原さん、川上さんなどチームを牽引してきたベテランが引退や退団をしたことで、野手では荒木選手に次いで2番目の年長者となり

「ベテランとしてチームが勝てるように若い選手をサポートしていきたい」

と意気込んで臨んだシーズンでしたが、前年より少ない68試合の出場に留まり、チームも19年ぶりの最下位となってしまいました。

2015年1億7500万円
2014年に続き、2015年も開幕は5番ファーストでスタメン出場でします。
しかし開幕3戦目に右手親指を骨折した影響で82試合の出場にとどまり、打率.262、本塁打は14年ぶりにゼロ。

契約更改の場で、

「最低でしょ! それ以外何もない」

と振り返った森野選手。

この頃から徐々に出身試合数が減っていきます。

2014年1億7000万円

2014年は2年ぶりに開幕スタメンを勝ちとり、5番ファーストで出場しました。

2014年から、入団1年目に着けていた背番号7を再びつけることになりました。

この背番号7、2013年に引退した山﨑武司さんから受け継いだのですが、2000年以降4年以上継続して背負われていないという短命?の番号なんです。

山﨑さんはぜひ背番号7を長寿番号に!と森野選手にエールを送っています。

結果はシーズンを通して一塁手として起用され打率.288、13本塁打、チームトップとなる86打点を記録しました。

一塁手として自身初となるゴールデングラブ賞を受賞します。

2013年1億6000万円
2013年はルナとクラークの助っ人外国人の加入により、7年ぶりに開幕スタメンから外れてしまいます。

しかし、荒木選手の打撃不振やクラーク選手との併用起用により、5年ぶりに二塁手でスタメンの機会が訪れます。

ルナと荒木が相次いで登録抹消されたことにより8月中旬以降は二塁手に定着します。

結果は134試合に出場、打率.286、16本塁打で、離脱する選手が多い中、充分健闘したと言える成績を残しました。

2012年1億9000万円
開幕は5番サードで迎えます。
5月のオリックス戦でプロ入り後初のサヨナラホームランを放ち、スカパー! サヨナラ賞を受賞。

アマチュア時代も含め、サヨナラホームランは初めてだったそうです。

勝利打点はチーム1位を記録し勝負強さは見せたものの、124試合の出場、打率.249、6本塁打と全体の成績としては奮いませんでした。

2012年に監督に就任した高木守道監督の若手起用の意向もあり、堂上直倫や高橋周平が起用されスタメンを外れることもありました。

2011年2億2500万円

開幕は3番サードでスタメン出場するも、統一球の導入などの影響で打撃不振に陥ります。
7月には自身初の月間MVPを獲得して復調の兆しを見せたものの、その後も調子を上げることができず2009年、2010年と2年連続で続けていた全試合出場も途切れてしまいます。

それでもチーム最多の142試合に出場してチームを引っ張り、球団史上初となる連覇に貢献しました。

2010年1億6000万円

背番号が30になり、気持ちも新たに2010年は選手会長に就任します。
前年同様に開幕からサードで3番に座り、打率は自己最高の.327、前年に続いて全試合出場を達成。

4年ぶりのリーグ優勝に大きく貢献します。

自身初のベストナイン(三塁手部門)にも選出されました。

2009年1億2000万円

2009年は三塁手として開幕戦に3番サードでスタメン出場。
4月,5月は打撃不振に苦しむも、6月ごろから復調し終わってみれば自身初の20本塁打を記録します。

終盤までチームメイトのブランコと打点王争いを繰り広げ、結果的に1打点差で惜しくも打点王獲得はなりませんでしたが、全試合出場を果たし23本塁打・109打点の自身最高の成績を残します。

活躍が認められ、この年限りで現役引退した立浪さんの背番号3の引継ぎを打診されるも守備で25失策と両リーグ最多の失策数を記録してしまったことや、ファンの多くが背番号3の永久欠番を期待していることなどを理由に保留。

翌年からは背番号30をつけることになりました。

2008年1億3000万円

初めて大台の一億円を突破した2008年。
春季キャンプで左手の甲を骨折し心配されましたが、開幕戦には7番・センターで出場。

5月に肉離れのため一時戦線を離脱するも7月に復帰し、8月には北京オリンピック日本代表にも選ばれます。

オリンピックから戻った後も出場を続け、96試合に出場し、打率は自身初の3割を越え.321を記録しました。
(※規定打席には到達していなかったが、オリンピック出場による特例措置で規定打席到達が認められた)

嫁と子供は?高校時代もチェック

そんな森野選手の子供についてみていきましょう。

嫁は美和子さんといい、一般人の方で森野選手とは小学校からの同級生だそうです。

つまり幼なじみですね!

プロ入り後も連絡を取り合っていたそうで、あまり会う機会はなかったものの遊びに行ったときなんとなくつきあおうという話になったんだとか。

2人は2002年、24歳の時に結婚しますが、プロポーズについてはハッキリと覚えてないぐらいの言葉だそうです。

照れているのかな?とも思いますが、森野選手は結婚を決めた時のことについて、

「2年ぐらい一人暮らしをしたときに、そろそろいいだろうと思って(結婚した)。この世界でできるって思ったわけじゃなく、自分自身を任せられる、そういう人を見つけてもっと野球に専念できるっていう時期にしただけ」

と振り返っています。
結婚してもいいかなと思ったタイミングで目の前にいたのが美和子さんだった、という感じでしょうか?

森野選手が小学校、中学校のころは携帯やスマホも今ほど普及していない時代でしょうからそんな中でも連絡を取り続けていたということは、やはりお互い気があったということなんでしょうね

そして子供については2人いるそうで、娘の凛ちゃんに、息子の遼真くん。

子供についての詳しい情報まではありませんでしたが、4人家族ということで森野選手の雰囲気的にも優しそうなパパなんでしょう。

森野選手の出身高校は神奈川県の東海大相模高校です。

神奈川県では横浜高校と並び甲子園常連の強豪校ですね。
森野選手は1年生からレギュラーとして活躍し、2年生の時春のセンバツに出場しています。

しかし、高校で一番の目標にしていた夏の甲子園の出場は叶いませんでした。
しかも、夏の大会では2年連続で横浜高校に破れるという悔しい結果となってしまいました。

3年生の時は準々決勝で横浜高校と対戦しましたが、3打席敬遠をされるなど勝負を避けられます。

唯一相手が勝負にきた場面で本塁打を打ち一矢を報いましたが、チームは敗れてしまいました。

2年連続で同じ相手に負け、しかも3度の敬遠されるくらいなのでそれだけバッティングが素晴らしかったということではあるんでしょうが、悔しかったでしょうね。

しかし敗戦について森野選手は「一枚も二枚も相手が上だった。負けるべくして負けました」と潔く語っています。

自身のチームについては「チームワークがよくまとまりはあったものの、練習に関してはもっと厳しくやるべきだったかなとは思います」と言ってますので、高校野球でチームワークの乱れは致命的ですが、仲良くやりすぎてもチームが締まらないという感じで微妙なところですが、振り返って分析できるとは素晴らしい洞察力ですね!

高校での一番の思い出だという唯一のセンバツに出場した時の印象について、

「足を踏み入れた時は、甲子園はすごく大きいなって思ったんです、バックスクリーンとか
ね。2試合やったのですが、勝っているときは、甲子園にいるっていう雰囲気もなく、プ
レーの最中は何も感じなかったです。でも負けた試合はあっという間に終わってしまいまし
たね。」

と語っています。

プロ野球選手になり、甲子園を本拠地とする阪神タイガースとは同じセ・リーグですから今まで何度となく甲子園でプレーしているわけですが、高校生の経験というのは鮮明に覚えているものなんですね!

そして高校通算38本塁打を記録し1996年のドラフト会議で中日ドラゴンズから2位指名を受け入団するわけですが、森野選手がプロを意識したのは3年生の夏頃のことで、もともとはプロに入れるとは思っていなかったそうです。

森野選手の高校時代の野球への取り組み方は自分のやりたいようにやる、という方法だったようで、バッティングでも守備でも、自分が考えている事をまずやってみて、違っていたときに監督から指摘を受けるという繰り返しだったそうですね。

ある意味自己流でやっていたというふうにもとれますが、相当な野球センスの持ち主!

あまりうるさくない監督さんだったのかもしれませんが、強豪校ですから練習も厳しく管理されているのかと思いきや、割と自由に野球をやってきたという印象です。

中日では落合監督時代、倒れるまでノックを受けたこともあったようですから、もしかしたらプロに入ってからの方が練習は厳しかったのかもしれませんね。

まとめ

ここまで、森野選手の戦力外や引退の噂、年俸や嫁と子供や高校時代について見てきました。

その時のチーム事情によって背番号や打順、守備位置が度々変わってきた森野選手。

その都度期待に応え、結果を残してきましたので2000本安打までの道のりは決して近いとは言えませんが、本人はまだまだ諦めていません!

引き続き応援しましょう!